ウェブマガジン

2025
インタビュートーク
  • 鈴木精さん

    伊豆漁業協同組合理事兼伊豆漁協稲取支所運営委員長


  • Title
  • 漁師が語る稲取キンメ漁の来し方と行く末

インタビュー紹介
鈴木精 【すずき・くわし】
稲取出身。キンメ漁を営む漁師。
静岡県立焼津水産高等学校専攻科卒業後、遠洋カツオ船に乗り、その後家業の漁業を継いで稲取でキンメ漁に従事。
伊豆漁業協同組合理事兼伊豆漁協稲取支所運営委員長。その他、全国海区漁業調整委員会連合会会長、静岡県超短波漁業無線協会会長などの要職を歴任。

焼津水産高等学校へ行きなさい

生まれも育ちも稲取で、代々漁業の家系です。何代目になるのか、はっきりわからないけれど、親父も祖父もその前も漁師でしたから、俺は4代目か、5代目になるのかな。男3人の真ん中で、子供の頃から夏休みになると、親父が海に行くぞって兄弟を船に乗せていました。でも、兄貴は船酔いがひどくてね。おふくろが3人分の弁当を作ってくれて、俺が二人分の弁当を食べてた。だから、兄貴には漁師という選択はなかったと思います。兄貴とは3つ違いで、兄貴の中学3年間の担任が、次に俺の担任になりました。先生は、俺の家のこともよくわかっていたから、その辺で裏工作があったんじゃないかと疑っているんだけど、高校進学の時に、お前のところは漁師なんだから、焼津水産へ行けって言われました。地元の高校に行って、その辺に勤めればいいやと思っていたんだけど、水産高校に行けって言われた時に、ああそうなんだ、俺は漁師になるんだ、と思いました。
焼津水産高等学校では本科で3年間、その後専攻科へ行って2年間学びました。卒業後はすんなり家に帰る、という気持ちはありませんでした。せっかくだから他も見てみたいという気持ちが強くて、焼津の福一漁業で遠洋カツオ船に1年間乗りました。

遠洋カツオ船に乗る

遠洋カツオ船には30人くらい乗っていきました。専攻科を出て航海士の免許を持っていたので、初めて乗ったのに、船では船長の次という立場でした。それで人間関係が結構難しかったから、最初は便所掃除から何からなんでもやりました。
船舶衛生管理者という資格も持っていました。遠洋船には必ずこの資格を持った人が乗っていなくてはならないんです。いざというときには、医者の代わりのようなこともやるんですよ。50年前は特別措置だったんじゃないかと思うのですが、専攻科在学中に二日間の講習を受けると卒業後に免許交付になりました。船で何かあれば、注射をしたり薬を出したり。ほとんど素人みたいなのが、そんなことをやっていました。
肩を脱臼した船員がいて、本を横においてそれを見ながら腕引っ張って肩を入れたなんてこともありました。船で風邪が蔓延してしまいやむなく注射をした時も、カツオ船の漁師は腕の筋肉がすごいから、浅く針を打ったのでは薬剤が出ない。それで思い切り深く針を打ったら何となくうまくいったというようなこともありました。船の医薬品のストックは充実していて、輸血セットや麻酔薬、縫う針なんかも入っていて、ちょっとした手術くらいはできるように準備されていますが、もちろん縫うなんでことはできません。鉄の扉で指を挟んでしまった船員さんにも、指をぎゅっと押さえつけて、添え木当てて固定して、ということくらいしかできませんでした。カツオ船の一番の記憶は、この船舶衛生管理者の仕事だったかもしれません。
もちろん、漁もやりましたよ。カツオを釣るだけではなくて、その日に釣った場所やトン数、群れの種類などの報告もやっていました。カツオ船は1航海45日くらいで、焼津漁港に戻って2日くらいでまた出航します。あの頃は佐世保で生餌(イワシ)を積んで、南や東の漁場を目指していきました。一番遠かったのは、ギルバート諸島。赤道直下の小さな島が点在するところです。俺が乗ったのは、375トンという当時日本で一番大きなカツオ船でした。この船ができて航海日数も長く取れるようになったので、漁労長がそんな遠い漁場まで行きたがったのかもしれません。ほかの船はもっと近場でもたくさんカツオを釣っていたのにね。釣ったカツオはブライン凍結して焼津まで持っていって陸揚げしました。給料は歩合制。俺は資格があったので、普通の乗組員の1.3倍くらいはありました。でも、その時稼いだお金はどこにいったのかな。

稲取の漁師になる

1年ほどカツオ船に乗った後、稲取に戻って親父の船に乗ることになりました。その頃、今の妻と付き合っていました。妻も稲取の人ですが、当時彼女は東京にいました。それで、漁が休みになると東京へ遊びに行っていました。東京へ行くと2日も3日も遊んでくるので、親がもう早めに結婚させて仕事をさせようということで、23歳の時に結婚しました。
親父はキンメ釣りとイカ釣り、冬場はサンマの流し刺網漁をやっていました。メインはやはりキンメ漁でしたが、あの頃は季節ごとにいろいろな漁をやっていました。親父の船は5トンくらいの船で、父と叔父、6人くらいの乗り子とで操業していました。漁はほとんど日戻りでしたが、7月くらいから海が穏やかになると、三宅島を基地に、御蔵島の先にある漁場にも通いました。そういう時は、稲取を夕方に出て明け方に漁場に着いたら一日漁をして三宅島に入ります。そして三宅を夜中に出港して、漁場に行って稲取に戻る。その間は船に寝泊まりしました。サンマはもう何十年もやってませんが、12月くらいになると脂が抜けたサンマが南下してきます。昔はそれを刺網で獲っていました。網を揚げながら網外しをするのですが、すごく面倒くさい作業でした。親父はサンマ漁が好きだったので、必ず一回りしてみるか、って言うんですよ。それが嫌でね。日没にサンマを見に行って、たくさん獲れればキンメには行けなくなるけれど、大体がサンマの後にキンメ漁に行くので、仕事の時間が長くなるのでね。

稲取のキンメ漁の歴史

キンメが稲取で揚がった一番古い記録は、明治時代だと聞いています。それはキンメを釣るための仕掛けではなく、練り物の原料の沖ギスなんかを獲ろうとして、底はえ縄にかかってきたというようなことだったのではないでしょうか。キンメを狙って獲るようになったのは大正時代からのようです。神奈川県の漁船がキンメを釣って稲取の港に入ってきて、その時に稲取の漁師が羽織袴でその船を訪ね、キンメを釣る仕掛けについて教えを乞うたようです。当時の仕掛けのことを、昔の漁師は大正道具と言っています。今も同じような仕掛け、立て縄を使っています。でも、当時はキンメの価値はあまり高くなかったので、教わった仕掛けを使って相場が良かったクロムツを狙って、キンメのいないところに仕掛けをいれていたこともあったようです。これは親父の親くらいの年代の人たちに聞いた話です。
戦時中は敵機に狙われてしまいますから、灯りをつけて漁をすることができなかったのですが、戦後は灯りをつけて餌があがってくると、それをキンメが追ってきてよく釣れたそうで、夜間のキンメ漁が盛んになりました。でも、獲りすぎなのか、灯りで呼んだ餌がどんどん流れていってしまい、それを追ってキンメも漁場にいなくなってしまうということもあったのか、今稲取のキンメ漁のメインの漁場となっている、大島に行く途中の漁場がだめになってしまいました。だから稲取では、夜のキンメ漁は絶対にやってはダメだと言われるようになりました。今は伊豆半島全体で、夜間のキンメ漁は禁止になっています。
稲取のキンメが良くなってきたのは、昭和30年代、稲取で温泉を掘り当てたり、伊豆急が通ったりしてからです。隣の熱川や河津にも温泉があったけれど、稲取には温泉がなかったんですよ。それで地元の人たちがお金を出し合って、両隣に温泉が出るのだから稲取でも出るだろうということで何回も掘りました。なかなか温泉が出なくて、海岸線の方で掘ってみたらやっと出た、というのが稲取温泉の始まりです。旅館などができて、料理は朝昼晩と魚。それで稲取のキンメの美味しさも広まっていきました。
キンメが良く揚がるようになって、稲取の漁師はイカ漁から離れていきました。その間、下田や仁科などではずっとイカ専門の漁師がいて、イカを自動で揚げる機械や、海水を冷やしてイカの鮮度を保つ設備への投資を一生懸命やっていました。ですから、稲取でキンメ漁が厳しくなってきた時に、イカ漁に戻ろうとしても下田や仁科との値段の差が大きくなってしまって、それで稲取ではイカを獲らなくなってしまいました。

  • 街中でキンメをアピール

    街中でキンメをアピール

  • 稲取漁港

    稲取漁港

地域団体商標、稲取キンメ

キンメが有名になってきて、国道沿いにやたらとキンメ、キンメというのぼりが出るようになって、このままでは、稲取のキンメもどこのキンメも一緒に評価されちゃうということで、ブランド化に向けて動き出しました。地域団体商標制度ができたばかりで、県の水産試験所と町と漁協でブランド化に向けて検討していきました。でも2回くらい特許庁に却下されて、ようやく平成25年に地域団体商標に「稲取キンメ」を登録することができました。
キンメの流通は、漁協が共同出荷で昔は築地と小田原に送っていました。大きめの魚は築地、小ぶりの魚は小田原で、キンメの相場は稲取のキンメが左右するくらいの評価がありました。でも、ここ10年は築地に直接送ることはなくなっています。キンメの単価は上がってきています。希少価値ということもあるでしょうが、かつて量があがっていた頃からすれば、3倍、4倍にはなっているのではないでしょうか。
今実際には15隻くらいがキンメ漁に出ています。ほぼ一人乗り。三人で乗っているのが1隻、二人乗りは2、3隻でしょうか。でも、キンメは人数乗っていればよい、ということもありません。一人で2本仕掛けができるけれど、3人で6本の仕掛けを出せるかと言えば、仕掛けがお祭りしちゃうとか、魚がいる範囲から仕掛けがはみ出てしまうということもある。

黒潮大蛇行とキンメ漁

今は黒潮の大蛇行で、資源状況がよくわからなくなっているのではないでしょうか。キンメ漁は、設備が進んで釣る回数が増えたということはあるけれど、あくまでも一本釣りで、極端に資源にかける負荷が大きくなっているということはないと思います。でも、黒潮大蛇行で潮の流れが速くなってキンメがいる場所が変わってしまっているのではないでしょうか。
稲取に戻って、2、3年目にやはり黒潮大蛇行がありました。その時親父は船の乗り子さんたちに、船のことはいいから自分で稼げと言って、採貝などに就かせたりしていました。そんな状態が3年くらい続いたかな。通常は年間250から300トンくらいの水揚げがあったのに、当時の大蛇行の時は年間50トンくらいで、キンメでは食べていけないので各船の乗り子さんたちは京浜地方の運搬船に乗ったり、陸に上がったりで随分漁業者が離れていきました。俺は自分の家の船なので、大蛇行になっても船から離れることはできませんから、親父が島の方に行ってみようとか言って、三宅島の方へ行って赤イカ釣りをしてみたり、いろいろなことを試していました。大蛇行が終わった後は、一時水揚げが400トン越えたこともありました。離れていった乗り子さんたちも、徐々に戻ってきて自分で船を持ってキンメ漁をやる人も出てきました。今回もこの大蛇行が収まれば、どうにかなるのではないか、という淡い期待を持っています。
でも、ここのところ年配の漁師さんはごっそり辞めていっています。これまで80代前後の結構な年配漁師さんたちは、あいつがまだ漁師をやってるなら俺も辞めないと頑張っていて、お互いライバル同士だから、張り合って漁をしているようなところがありました。昔と違って、エンジンもスイッチ一つでかかるし、航海計器を使えば漁場まで楽に行ける。仕掛けも機械で揚げられる。足腰さえ丈夫だったら、漁師はできる。だからみんな踏ん張ってやってきていたんだけど、ここのところ、黒潮大蛇行やコロナ禍の影響で、一人辞めると、もうそれが引き金になってバタバタ辞めていく人が増えていっています。一年で7隻も8隻も辞めることもあって、漁協としてもかなり厳しい状況です。

キンメが大人気、直売所こらっしぇ

平成31年に直売所こらっしぇが開店しました。コロナの頃、会議で静岡に行った時たまたまスーパーに寄ってみたら、下田や神奈川のキンメが2尾で1,000円前後で売られていてびっくりしました。小田原の市場に聞くと、稲取のキンメはスーパーなどのこれまでとは異なる需要があるからどんどん送ってほしいということで、幸いそれほど値段が下がることはありませんでしたが、ちょうどそういうタイミングでこらっしぇができて、鮮魚や凍結して味噌漬けの加工をするなど、自分たちでもキンメの販路を創り出せたことはよかったと思います。
こらっしぇでは、キンメについては稲取の漁師が獲ってきたものしか置いていません。最初作っていた味噌漬けは、今は原料がなくてやっていませんが、漁協の職員がこらっしぇの中にある魚を捌くための小さなスペースで作っていました。こらっしぇには十分な加工スペースがありません。設計図を作る段階で漁協がもっと参画できていたらもう少し違っていたのかな、とちょっと残念に思っています。
煮つけや干物は、サイズ別に凍結したものを、委託した業者に送って作ってもらっています。煮つけの味付けに関しては、最初頼んだ業者は薄味でしょっぱさが際立っている感じだったので、女性部が作っているレシピを取り入れて、業者と相談しながら変えていきました。煮汁をかけてご飯が食べられるような、ちょっと濃いけれど地元でいつも食べられているような漁師の味付けにしよう、ということで今の商品になりました。
こらっしぇに関しては、加工スペースもそうですが、食堂のようなこともできれば、もっと展開が期待できると思っています。廃車になったバスを置いて、料理を出すなんてことをやりたがっている人もいるんだけど、反対する人もいるし、アイディアはあるけれど実現していくにはいろいろ壁がありますね。

  • 稲取漁港直売所「こらっしぇ」

    稲取漁港直売所「こらっしぇ」

  • 「こらっしぇ」の横にはキンメのモニュメント

    「こらっしぇ」の横にはキンメのモニュメント

「こらっしぇ」のキンメ商品

「こらっしぇ」のキンメ商品

これからの稲取漁業に想うこと

先のことが分からないのが漁業なんだけど、大事なことは今漁業をやっている人たちがちゃんと漁業で食べていける状態を維持すること、それが一番だと思う。漁協が、例えばキンメが厳しい時には、こっちをやればいいよ、というように代替のことを創り出せるような組織であればよいなと思うけれど、そこまで思いが至らないのが現実かな。キンメの値段がもっと上がればよいという考えもあるけれど、相手があることだし、値段が上がればどこかにしわ寄せも来るので、そう簡単なことではないような気がします。
今年はテングサをやりたい、という人が何人かいるので、そういうところはすぐに動いて、希望する人たちがメインの漁の合間にできる漁をやっていけるように支援していきたいと思います。
あとは港の有効活用かな。空いているところが増えてきたので、プレジャーボートを預かるとか。漁師の直接的な収入にはならないかもしれないけれど、やはり漁協が潤えば、漁業者一人一人に何か還元できるのではないかと考えています。
自分自身の漁業としては、親父から船を引き継いだのは40歳代の頃、親父が脳溢血をやって、それはすっかり回復したんだけど、お袋から、船にのせたら親子の縁を切る、と言われて、そこから叔父と二人で乗るようになり、今は一人になっています。俺の次はないです。兄貴が継ぐべきところを、結局俺が継いだので、自分の代で終わってもいいかな、という風に思っていました。だから息子には漁師をやれとか家を継げ、ということは一言も言いませんでした。自分の代で、家の漁業は終わりです。今はちょっと体を壊して手術もしたので、船に乗っていませんが、元気になったらまた乗りたいと思っています。でも、家族からの許可は出ないかもしれませんね…。

インタビューを終えて

( 一社)うみ・ひと・くらしネットワーク関 いずみ

手術をされたとお聞きして、大変心配しておりましたが、元気そうで少し安心しました。物静かだけれど言うべき時はきっぱりはっきり意見を言う精さん。ご自分の漁業はもちろん、地域の漁業、水産業のために考え、動いていらっしゃいます。遠洋カツオ船に乗られていたとは、実は今回初めてお聞きしました。半世紀を超える漁師生活を、今度またゆっくりじっくりお聞きしたいと思います。その時は一升瓶下げて行きますね!

関 いずみ プロフィール
東京生まれ。博士(工学)。(一社)うみ・ひと・くらしネットワーク代表理事、東海大学人文学部教授。
ダイビングを通して漁業や漁村に興味を持ち、平成5年に(財)漁港漁場漁村技術研究所に入所。漁村の生活や人々の活動を主題として、調査研究を実施するとともに、漁村のまちづくりや漁村女性活動の支援など、実践的活動を行っている。令和2年に仲間たちと(一社)うみ・ひと・くらしネットワークを立ち上げる。
PAGE TOP